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金平糖の歴史

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 金平糖の語源は、ポルトガル語の「confeitos」(コンフェイトス)(※注1)。今から約450年前の安土桃山時代、宣教師によって伝えられ、元禄元年には長崎で盛んに造られました。渡来当時は南蛮菓子(※注2)と呼ばれ、一般の庶民にはめったに口に出来ないほど、非常に高価なお菓子でした。

注1:confetti(伊語)、confect(英語)、
   konfekt(独語)、dragee(仏語)

注2:南蛮菓子は、金平糖、有平糖、ボーロ、カステラなどの総称。


 永禄12年(1569年4月)、ポルトガル宣教師 ルイスフロイスは、京都二条城にいた 戦国武将 織田信長を訪ねた際、ろうそく数本とフラスコ入りの金平糖を贈った、と記されています。
 織田信長は、大の甘党で金平糖を気に入り、何度も取り寄せたそうです。信長が、もし外国との交流に対して封鎖的だったら、今の金平糖はなかったかもしれません。金平糖をはじめとする南蛮菓子は、その美味しさのあまり当時の日本人の心を虜にしたことでしょう。
 また、伝来当時の金平糖の核は、ゴマが使用され、製造方法は一切の秘密でした。
 南蛮菓子は、それまでの和菓子に大きな影響を与えました。

 伝来当時の金平糖は、白一色で今のような角はなく、ゴツゴツとした球形に近いものであったと言われております。それが、元禄元年(1688年)頃から日本人の手によって長崎で作られ初めてから、中国地方、近畿地方、関東地方へと、東へ伝わり、文政年間(1818年)には、江戸でも作られるようになりました。
 その間の金平糖職人達の切磋琢磨の結果、現在のような角のある、色合いの綺麗な金平糖になりました。遙か彼方のコンフェイトスは、日本人の手によって日本独特の金平糖へと進化をしていきました。
 その後、南蛮菓子は日本全国に広がり、日本のお菓子文化が一気に開花しました。現在の和菓子のルーツの一つとなりました。

 明治中期~後期にかけて、金平糖は爆発的な人気を博し、全国規模で製造されるようになりました。そして駄菓子の定番となりました。
 しかし、大正時代に入り、キャラメルやドロップといった新しい飴に圧され、昭和の初期には、金平糖は次第に姿を消していきました。

 金平糖は日持ちがする(保存食に適している)、栄養価が高い、糖分の補給に優れている、などの点から、兵隊さんの携帯保存食として利用されました。

※大変申し訳ございませんが、エビス堂は金平糖製造専門ですので、文献等に関するお問い合わせ・ご質問は受け付けておりません。とくに、電話等のお問い合わせは堅くお断り申し上げます。どうぞご理解とご協力をお願いいたします。

金平糖の作り方

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上質なグラニュー糖を大きな銅釜に入れて水で溶かします。グラニュー糖が焦げ付かないように丁寧にかき混ぜながら、溶かして下写真のように「糖蜜」を作ります。


その日の温度・湿度で火力を調節しかける糖蜜の量を調整し、金平糖の転がり具合を見ながらの作業が続きます。夏や冬といった季節にも大きく左右されます。長年の経験と勘が頼りです。

ドラという斜めに傾いた大きなフライパンのような釜に、核となるザラメを入れ、糖蜜を振りかけていきます。この釜は、ゆっくりと回転していて、常時、下から火であぶっています。

糖蜜を掛けたら、金平糖かき混ぜます。このかき混ぜる行程は、ドラ全体に均一に糖蜜を行き渡らせるための大変重要な行程なのです。

金平糖が転がる音は、まるでさざ波のようです。「ザ、ザザァー」と言う音が工場内に広がります。この金平糖に、糖蜜を振りかけていきます。乾いたら掛けて、また乾いたら掛けて、の行程を毎日、延々続けます。すると「角」が出てきます。木の年輪のように、衣を着せるように、その角を育てていきます。気の遠くなるような作業が続きます。

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